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大航海時代(新大陸・新世界と旧大陸・旧世界)

ヨーロッパ人が世界各地に公開し、新大陸を発見した大航海時代(15-17世紀)は、その後の歴史に大きな影響を与えました。
高校地理との関連では、たとえば新大陸原産の作物(ジャガイモトウモロコシ)が世界中で栽培されたり、新大陸に多くの黒人奴隷が連れてこられたことが現在の人種・民族分布にも反映しています。

このページでは、高校地理を学ぶにあたって背景知識となる大航海時代について解説します。

大航海時代

大航海時代のキャラック船の模型(ポルトガル・リスボン海洋博物館(Museu de Marinha de Lisboa))。1589年にポルトガルで建造され、インドへ2回航海を行い、2回目の航海の帰路でイギリス海軍と交戦して拿捕された。全長は50mにもなり、当時としては大規模な船舶である。出典:Wikimedia Commons, ©Marco2000, 2024/4/14閲覧

大航海時代とは、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ各国による遠隔地への大規模な探検・征服が行われた時代です。
ヨーロッパでは「地理上の発見」や「Age of Discover(大発見時代)」とよばれます。

ヨーロッパ人による新大陸の発見やマゼランの世界一周は、今まで交流がなかった地域間に新たな交流を引き起こしました。
南北アメリカ大陸にしか存在しなかった作物が世界中に伝播し、今日の農業にも大きな影響をもたらしています。
一方で、ヨーロッパ人による世界各地の進出は、のちの時代の植民地支配にもつながります。
南北アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が意図せず持ち込んだ疫病によって先住民人口が激減し、不足する労働力を補うためにアフリカから黒人奴隷が連れてこられました。
植民地時代の国境は現在も国境として残り、民族の分断や内戦の遠因となるなど、現代の地域情勢にもつながる歴史のターニングポイントでもあります。

表 大航海時代(15-17世紀)の主な航海の年表(注:クックは大航海時代から外れる)

名前 到達地
1434 ジル・エアネス(エンリケ航海王子の指揮下) ポルトガル ボハドル岬(ボジャドール岬、西サハラ)
1488 バルトロメウ・ディアス ポルトガル 喜望峰(南アフリカ)
1492 コロンブス スペイン 西インド諸島(中米)
1498 ヴァスコ・ダ・ガマ ポルトガル インド(喜望峰経由)
1500 カブラル ポルトガル ブラジル
1513 バルボア スペイン パナマ地峡(太平洋の発見)
1522 マゼラン(の艦隊) スペイン フィリピン、世界一周
1606 ヤンスゾーン オランダ オーストラリア大陸
1642 タスマン オランダ ニュージーランド、タスマニア島(オーストラリア)
1773 クック イギリス 南極圏

新大陸(新世界)と旧大陸(旧世界)

新大陸(新世界、緑色)と旧大陸(旧世界、灰色)。15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を新大陸(新世界)とよぶ。新大陸に対して15世紀以前からヨーロッパ人に存在が知られていたユーラシア大陸とアフリカ大陸を旧大陸(旧世界)とよぶ。この地図ではオーストラリア大陸だけではなくオセアニア全域が新世界として分類されている。出典:Wikimedia Commons, ©Xiaphias (derivative work), ComputerGuy890100 (original) CC BY-SA 3.0, 2024/4/14閲覧

15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸新大陸(新世界)とよびます。
新大陸に対し、15世紀以前からヨーロッパ人に存在が知られていたユーラシア大陸とアフリカ大陸旧大陸(旧世界)とよびます。
15世紀以前の歴史は事実上、旧大陸(旧世界)で完結していたのに対し、大航海時代以降は新大陸を巻き込み世界中が関わり合いを持ちながら歴史が進んでいきます。

新大陸の発見と植民地化

1700年以降の南アメリカ大陸の領土の変遷。新大陸に進出したスペインとポルトガルは1494年にトルデシリャス条約を結び、東部のブラジルがポルトガル領、西部はスペイン領という棲み分けが行われた。19世紀前半には植民地が相次いで独立し、大陸の大部分の地域が独立国家で占められるようになる。出典:Wikimedia Commons, Public domain, 2024/4/16閲覧

14世紀以前の世界では遠隔地との交流は非常に限られており、旧大陸(旧世界)と新大陸(新世界)の交流はほとんどありませんでした。
15世紀になると、イベリア半島からイスラム勢力を追い出したスペインやポルトガルが資金を投入し、アフリカ沿岸や南北アメリカ大陸の探検を行うようになりました。
1492年にはスペインの援助をうけたコロンブス(Christopher Columbus, 1451-1506)が西インド諸島北部のバハマ諸島(現バハマ、米国フロリダ半島の東)に到達しました。

当時、南北アメリカ大陸はヨーロッパの人々に存在が知られておらず、交流もありませんでした。
南北アメリカ大陸に進出したヨーロッパ人は新大陸原産の様々な農作物をヨーロッパに持ち帰りました。
その結果、新大陸原産のジャガイモトウモロコシといった作物が世界中に伝播し、今日の農業にも大きな影響をもたらしています。
南北アメリカ大陸原産の作物の例として、ジャガイモやトウモロコシに加えて、カカオタバコパラゴムノキ、トウガラシ、トマト、バニラなどがあります。

カリブ海周辺では、ヨーロッパでは栽培できない熱帯原産の商品作物(サトウキビ綿花など)を栽培し、先住民を働かせてプランテーションを経営しました。
しかし、ヨーロッパ人が意図せずして持ち込んだ疫病が広がり、旧世界の疫病に対する免疫をもたない先住民の人口は激減しました。
そこで、ヨーロッパ人は労働力を確保するためにアフリカ大陸から奴隷を連れてくるようになりました。

ポルトガルとスペインは新しい進出地の勢力圏を決めるために、1494年にトルデシリャス条約を結びました。
トルデシリャス条約では、西経46度36分を境界として、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏と定めました。
この経線はブラジル東部を通るため、北アメリカ大陸全域と南アメリカ大陸の大部分がスペイン領となりました。
南アメリカ大陸の中でも東に突き出たブラジルのみが例外的にポルトガル領となりました。
このような歴史的経緯のため、ラテンアメリカの大部分の国がスペインの旧植民地であり、現在でもスペイン語を公用語としています。
その中でブラジルだけがポルトガルの旧植民地であり、現在でもポルトガル語を公用語としています。
新大陸の大部分がスペイン領となった代わりに、ポルトガルはアフリカ大陸沿岸~インド~東南アジアに拠点を築き、広大な海上交易ネットワークを構築しました。

参考

1000年頃のヴァイキングの居留地であるランス・オ・メドー(カナダ東部・ニューファンドランド島)。当時の住居を再現している。アイスランド生まれのヴァイキングであるレイフ・エリクソン(Leif Erikson, 970?-1020?)はヨーロッパ人ではじめてアメリカ大陸に到達し、居留地を築いた。しかし、原住民との抗争などの影響でこの居留地は短期間で放棄され、その後の歴史に大きな影響を与えることはなかった。出典:Wikimedia Commons, ©Fruggo, CC BY 2.0, 2024/4/16閲覧

アメリカ大陸の「発見」
コロンブスによる新大陸の「発見」は、あくまでヨーロッパ人視点の見方です。
アメリカの先住民であるネイティブアメリカン(インディアン)の先祖は1万年以上前から南北アメリカ大陸に住んでいました。

さらに、ヨーロッパ人に限定しても、コロンブスは最初の発見者ではありません。
アイスランド生まれのヴァイキングであるレイフ・エリクソン(Leif Erikson, 970?-1020?)は、1000年頃にカナダ東海岸のニューファンドランド島に到達し、居留地を作りました(ランス・オ・メドー)。
しかし、先住民との抗争によりこの居留地は短期間で放棄され、その後の歴史に影響を与えることはありませんでした。

コロンブスの新大陸発見が歴史の教科書で大きく取り上げられるのは、その後の影響の大きさにあります。
コロンブスは最初の発見者ではありませんが、その後の世界の歴史に与えた影響の大きさはネイティブアメリカンやレイフ・エリクソンとは比較にならないほど大きなものです。
たしかにコロンブスの「発見」はヨーロッパ人視点の言葉でありますが、世界の歴史のターニングポイントとなるできごとであるのは間違いありません。

大航海時代におけるアジア進出

大航海時代の1598年時点でのスペインとポルトガルの植民地。赤系がスペインの植民地、青系がポルトガルの植民地や拠点である。2つの経線はスペインとポルトガルの間の勢力圏の住みわけであり、1494年のトルデシリャス条約でアメリカ大陸における両国の勢力圏を決め、1529年のサラゴサ条約でアジアの勢力圏を決めた。スペインはアメリカ大陸で面的な領土支配を行い、鉱山開発やプランテーション農業を行った。一方、ポルトガルは本国からアジアに広がる海洋交易網を確立し、香辛料貿易を独占した。ポルトガルの領土支配はあくまで沿岸部に限られた。出典:Wikimedia Commons, ©Trasamundo, CC BY-SA 3.0, 2024/4/16閲覧

大航海時代のヨーロッパ人は南北アメリカ大陸だけではなく、アフリカやアジアにも進出しました。
ここからは、ポルトガルとスペインのアジア進出とその後の覇権国家の交代についてふれていきます。

ポルトガルのアジア進出

ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460?-1524)は1498年にアフリカ大陸南端部の喜望峰経由でインドに到達しました。
これを皮切りにポルトガルは喜望峰・インド経由でインドネシア東部のモルッカ諸島(マルク諸島)にまで進出していきました。
インドやモルッカ諸島は香辛料(コショウやナツメグ、クローブなど)の産地であり、ポルトガルは香辛料貿易により膨大な利益を上げました。

15世紀以前はイスラム商人やジェノバ商人など複数の商人をまたいで取引されていたため、香辛料の末端価格(ヨーロッパでの価格)は非常に高価でした。
しかし、インドから直接買いつけるポルトガルは仕入れ価格が安いため、香辛料貿易で膨大な利益を上げることができました。

ポルトガルは東南アジアから北上して日本にも進出し、1543年には種子島(鹿児島県)に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。
さらにイエズス会のザビエル(Francisco de Xavier, 1506-1552)を日本に派遣してカトリックの布教を行ったり、日本とも交易を行うようになりました(南蛮貿易)。
1582年には九州のキリシタン大名が4名の少年を派遣し、ローマ教皇に謁見しました(天正遣欧少年使節)。
この際はポルトガルが築いたしたルートを利用し、マカオ(中国南部)、マラッカ(マレーシア・マレー半島西海岸)、ゴア(インド西海岸)、モザンビーク(アフリカ南部東海岸)を経由してヨーロッパへ渡りました。

スペインのアジア進出

一方、南北アメリカ大陸に進出したスペインは、メキシコから太平洋を超えてフィリピンに進出しました。
1521年にはマゼラン(Ferdinand Magellan, 1481-1521)の艦隊が南米南端部のマゼラン海峡を超えて太平洋に進出し、太平洋を横断してヨーロッパ人ではじめてフィリピンに到達しました(その後、艦隊は世界一周)。
フィリピンはその後、スペインに征服されて1898年までスペインの植民地でした。
フィリピンでキリスト教徒(カトリック)比率が高いのは、長い間スペインの支配下にあった歴史が影響しています。

フィリピンに拠点を築いたスペイン人は、ポルトガルと同様に日本と交易を行うようになりました(南蛮貿易)。
江戸時代初期の1613年には、仙台藩主・伊達政宗が支倉常長をヨーロッパへ派遣し、ローマ教皇に謁見しました(慶長遣欧使節)。
この際はスペインが開拓した季節風(モンスーン)を利用する航海ルートを使い、日本から3ヶ月かけて太平洋を横断し、陸路でメキシコを横断して船に乗り換え、メキシコ湾と大西洋を経由してヨーロッパへ渡るものでした。

ポルトガルのルートでは日本からユーラシア大陸とアフリカ大陸に沿うように西回り(インド・喜望峰経由)でヨーロッパへ向うのに対し、スペインのルートでは太平洋とアメリカ大陸、大西洋を横断する東回りでヨーロッパへ向かいました。

大航海時代から植民地支配へ

ポルトガルやスペインは広大な交易網や植民地を築きましたが、本国の人口に見合わないほど大規模になってしまったことあり、しだいに維持できなくなります。
17世紀になると、ポルトガルは新興のイギリスやオランダとの競争に敗れ、その海上交易網はイギリスやオランダに取って代わられるようになります。
スペインが築いた南北アメリカ大陸の植民地は19世紀に入ると相次いで独立し、スペインは国際社会における影響力を低下させていきました。

ヨーロッパ諸国は、しだいに沿岸部だけではなく内陸部にも進出し、貿易だけではなく原住民を統治する植民地支配を行うようになりました。
植民地では、現地住民を働かせて鉱山開発を行ったり、寒冷なヨーロッパでは栽培できない商品作物(コーヒーなど)の栽培が行われました(プランテーション)。

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参考文献

地理用語研究会編「地理用語集」山川出版社(2024)
大航海時代(だいこうかいじだい)とは? コトバンク 改訂新版 世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ) 2024/4/16閲覧
大航海時代 ウィキペディア 2024/4/14閲覧
Willem Janszoon, Wikipedia 2024/4/14閲覧
アメリカ大陸の発見 ウィキペディア 2024/4/15閲覧
Leif Erikson, Wikipedia 2024/4/15閲覧
トルデシリャス条約 ウィキペディア 2024/4/15閲覧
Timeline of the Magellan expedition, Wikipedia 2024/4/14閲覧
フィリピンの歴史 ウィキペディア 2024/4/15閲覧

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